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『この世界の片隅に』

●序文

何はともあれ2016年一番の映画だと思う傑作、『この世界の片隅に』。

巷でもあれこれ語られているけれど、みんなと同じことを言ってもしょうがないのであまり言及されていないことを書いてみようと思います。ネタバレ全開かつ、多分公開してからもちょくちょく編集すると思うけれどもデータ保存も兼ねて載せますよ。

 

●感謝の言葉に代えて
絵を描く者の端くれとして、本作の画面強度にはひたすら感服するばかりで、アニメーションは画面の隅々にこれほど自覚的でいられるのだと宣言されているようでもあり、そこに込められた熱量に涙せずにはいられない。
過剰な虚飾を控え精到に作られた本作は、題材と相まって生じ得る徒らな苛烈さを、こうの史代に特徴的な柔らかなデザイン、そして何より能年玲奈の声が絶妙に包み込むことで、静かで深い感傷を呼び起こすことに成功している。
映画史・アニメ史に確かな足跡を残す大傑作と言うに相応しく、この力強い作品が世に出る瞬間に立ち会えたことに感謝するとともに、人口に膾炙することを願ってやまない。

 

●手の主題系
この世界の片隅に』は"手"の映画である。
手をつなぐ、物を渡す、或いは奪い奪われる、そして何より絵を描くという動作が作中に散りばめられており、作画上、手は大きく強調されて描かれている点からも、この論は支持されるだろう。
自分が本質的に空虚な存在であると信じ、それが世に露呈することを恐れるすずさんが、唯一屈託なく世界と関係するための装置として、絵を描くことは描写される。より踏み込んで言えば、すずさんが世界に対し唯一能動的に干渉するための手段、それが絵を描くことである。
翻って、その他の動作においてすずさんは世界と手を結ぶことはあっても、自ら干渉するには至らず、往々にしてその役目を簒奪され強要されることになる。例えば哲さんから籠を与えられ、義姉に米研ぎの役を奪われるように。
この事実は本作の最も恐るべき瞬間にも立ち現れてくる。即ち、右手そのものの喪失である。この喪失は、絵を描く手段の喪失を意味し、また家事というすずさんの生活の基礎を妨げ、故に生きることを妨げる。すずさんの深淵に自覚なく存在する豊かな想像力は行き場を失い、自身の居場所が何処であるのか、改めて自問するよう促される。世界との繋がりをうまく保てない象徴的な場面として、左手で描かれた背景の歪みが挙げられるだろう。

 

●たんぽぽ
このようにすずさんの在り様を見ていくと、一つの事実に突き当たる。
即ち、すずさんはたんぽぽである。
たんぽぽは冒頭、『この世界の片隅に』という表題が映される場面で登場し、段々畑、EDでも現れ、更には曲名として明示される。本作中に数々出てくる自然物は往々にして人間との隔絶された装いから反戦を声高に謳うが、中でもとりわけ特権的な地位が与えられているのはたんぽぽ、雲、鷺の三つである。この三者においては、風に流されること、自ら飛ぶことという対比がなされるが、すずさんが世界に振り回される様を鑑みるに、すずさんはたんぽぽにおいて暗示されていると言えるだろう。
監督の弛まぬ努力により紡がれた緻密な世界に押しやられ、この世界の片隅にひっそりと暮らしているのがすずさんである。なんとなしに歳を取り、周囲に流されるがまま結婚し、或いは右手を奪われ、戦争に日常を蚕食され、挙句小市民的に戦争の論理に回収されてしまう。これがすずさんである。自ら飛ぶことができないすずさんは、だからこそ鷺を逃がそうと必死になる。
しかし、このもがくことが、飛べないなりに居場所を求めてもがくことが、最後の場面で決定的な意味を生む。

 

●右手の不在=大人になること
先程、絵を描くことは能動的に世界へ影響を与える唯一の手段だと述べたが、すずさんに秘められた豊かな想像力は、描くことによって世界を彩り、ある種のマジックリアリズムを具現するに至る。ではその魔術は一体何をもたらしたのだろうか。
最大のものは周作との邂逅である。"怪物"の籠の中で二人は出会い、周作はすずさんに魅了され結婚を申し込む。呉という街はすずさんが自ら作り出した居場所であり、必然、物語の終盤で選択されるのは、広島ではなく呉でなければならなかった。
この決断は、すずさんの自覚が世に現前した瞬間である。作中を通して周囲に流されるばかりであったすずさんは、しかし表面上感じられるほど無頓着ではなく、物事の機微を察する能力を持ち合わせている。ハゲは一つの例示であるが、ある意味では、右手を喪った"おかげ"で、調和の取れていたストレスの収支が崩壊し、自らの振る舞いを今一度考える契機になったと言えるかもしれない。
こうした世界との闘争の果てに、少女から大人へと成長を遂げたすずさんは、最後には右手の不在が故に子供を得るが、このことは呉を居場所として確定するに留まらず、子供を養うこと=右手を介さない世界への干渉の萌芽を感じさせる。子供から衣服を脱がせる行為はそれを示唆していると言えるだろう。

 

●此岸と彼岸、この世界の片隅において
死した右手は、死者を描く。死者とは晴美であり、兄であり、凛さんである。すずさんの心性を発揮する役目を終え最早彼岸のものとなった右手は、すずさんの頭を撫で優しく決別を告げる。瞬間、すずさんは『この世界の片隅に』生きることを自覚し、大人へと成長を遂げる。だからこそ、橋の上でこう言うのである。
「ありがとう。この世界の片隅に、うちを見つけてくれて。」